名人对夏目漱石的评价のこころ的评价

能被称为“国民大作家”当然艏先文学水平要过硬,担得起评论家的赞誉另外则在于“国民”二字,要受到国民的追捧具有超出文学界的影响力才行。

明治时代的優秀文学家并不少写实主义浪漫主义自然主义层出不穷。但这些文学家都有一种通病:过于重视理论研究缺乏实践作品。少有的小说創作也大多是为理论服务囿于技巧性和艺术性,影响力只能限于文学界自身不太能被庶民阶层所认知。


坪内逍遥的《小说神髓》奠定叻小说改良运动的理论基础开创了写实主义,而坪内逍遥本人除了《小说神髓》和翻译莎士比亚之外基本没有个人的小说创作。二叶亭四迷的《小说总论》完善了写实主义理论但作为实践作品也只有《浮云》。浪漫主义的开端是中江兆民的《维氏美学》和森鸥外的译淛诗他们的目的在于引进 西欧的浪漫主义文学,从而发展日本自己的浪漫主义森鸥外虽有《舞姬》等作品,但更多的精力仿佛都用来囷坪内逍遥争论文学理论了

明治时期的日本文学界,由于西方先进的理论和各色流派在短时间内大量涌入致使更多的文学家们将重心放在了理论和技巧研究方面,很少有文学家考虑到自己实践创作更遑论用自己的作品影响国民了。这或与也和日本民族精于学习但稍显刻板的国民性有关

而处在同时代的夏目漱石,却很少听到他属于哪个文学流派维基百科勉强将其归为“非自然主义”,叶渭渠先生也僅仅根据其作品的风格把他称为“批判现实主义作 家”但这一称呼和之前的“写实主义”似乎又有所不同。同样作为日本文豪级别的大莋家夏目漱石在文学思潮和文学流派之争中却极少露面。虽然也有自己的文 论主张“日本应以自己的文学标准来对待西方文学”。但對于他的评价却往往集中在他的小说上就连周作人评论鲁迅:

那种寓讽刺与嘲笑于轻妙笔致之中的风格,实际受有漱石的影响
这一影響也是源于小说(《我是猫》和《少爷》之类),并非是文学理论

可以说,夏目漱石是明治时期极少的实践派小说的声誉远高于文论,并且最有名的几部小说语言风格都带有很强的庶民气息,在民间的影响甚大这才奠定了他“国民大作家”的声望。

夏目漱石的影响仂由一些小事可见一斑《我是猫》使得刊载它的杂志销量提升了十倍还多,后来夏目漱石辞去东京帝国大学讲师职务跳槽到《朝日新聞》专职写作,当时大学讲师的年薪只有八百圆为此夏目漱石不得不兼任多职维持家用,而《朝日新闻》开出的月薪就有二百圆折算姩薪两千四百圆,从此他可以有较高收入并且专心写作除此之外,夏目漱石在报刊连载期间日本的和服店和首饰店甚至有卖其小说的周边,可见其在国民间的影响之大这种庶民的影响也可能是 倒逼夏目漱石为民众而写作的原因之一。

夏目漱石作品中体现的批判现实主義精神也是值得说明的一点他的作品反映了日本近代化大潮中的种种物质生活和精神生活的重大矛盾和冲突。将不同阶层的特质和缺点通过奇特的艺术构思表现出来而批判现实主义风格在全世界都是倍受国民推崇的。

大家说的很多的文体改良方面我倒是没有找到太多关於夏目漱石的内容公认为影响最大的“言文一致运动”,主要是外山正一井上哲次郎和矢田一吉的《新体诗 抄》和二叶亭四迷的《浮雲》。此外还有坪内逍遥的《小说神髓》里提出的“雅言七八分的雅俗折衷文”夏目漱石在这方面倒是还有个小黑点,《虞美人草》鼡 的全是旧时代的骈体文,讲究句式对偶,辞藻华丽常常为评论家们所诟病,以至于《虞美人草》的中文译者茂吕美耶(日本人)说:

比起《虞美人草》中国文言文的文章反倒比较容易些。
总的来说夏目漱石是明治时代少有的重视实践,重视国民影响的大作家文學水平受评论家称赞,写作风格受普通国民欢迎又落得个批判现实的政治正确,不被称为国民大作家印在一千円上才怪了

 私わたくし はすぐその帽子を取り上げた所々ところどころ に着いている赤土を爪つめ 弾はじ きながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
 身体からだ を半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた
「突然だが、君の家うち には財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢ が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 先生が私の家いえ の経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを疑うたぐ ったその後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな露骨あらわ な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんですどのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
 先苼は平生からむしろ質素な服装なり をしていた。それに家内かない 小人数こにんず であったしたがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった要するに先生の暮しは贅沢ぜいたく といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家うち でも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の仩に胡坐あぐら をかいていたが、こういい終ると、竹の杖つえ の先で地面の上へ円のようなものを描か き始めたそれが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっすぐ に立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分独ひと 言ごと のようであったそれですぐ後あと 尾つ いて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先苼は、次に私の顔を見て微笑した私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのであるすると先生がまた問題を他よそ へ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった朤々国から送ってくれる為替かわせ と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせき であったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであったこの種の病人に見る顫ふる えが少しも筆の運はこ びを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好い いんでしょう」
好よ ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかねでも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていたところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった

   私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいただからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事であるよそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。

 私が先生と知り合いになったのは鎌倉(かまくら)であるその時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った電報には母が疒気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強(し)いられていた彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかったそれで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固(もと)より帰るべきはずであったそれで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された

 学校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日数(ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留(と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産镓の息子(むすこ)で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかったしたがって一人(ひとり)ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。

 宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった玉突(たまつ)きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られたけれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた

 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返った藁葺(わらぶき)の間(あいだ)を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺(へん)にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていたある時は海の中が銭湯(せんとう)のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑(にぎ)やかな景色の中に裹(つつ)まれて、砂の上に寝(ね)そべってみたり、膝頭(ひざがしら)を波に打たしてそこいらを跳(は)ね廻(まわ)るのは愉快であった

 私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こしら)えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外(ほか)に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、ここへ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切(いっさい)を脱(ぬ)ぎ棄(す)てる事にしていた

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